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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

人心は象を飲み込むほどではない!?
日本人が提唱した「大東亜共栄圏」は、
どれほどの規模だったのだろうか?

人心不足蛇吞象!日寇曾鼓吹的
“大东亚共荣圈”,大到什么地步?

来源: 腾讯网 2019-8-26
 

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月17日
 


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本文


 第二次世界大戦中、この島国はドイツに劣らず野心的であった。

 ドイツのナチスがヨーロッパの支配を目指したのに対し、日本はアジアの支配を目指したのである。

 大東亜共栄圏」という言葉は、反戦ドラマによく出てくるが、当時の日本が乱暴に提唱していた。 しかし、いわゆる「大東亜共栄圏」は、日本の侵略を美化するための偽善的なイデオロギー表現、日本が他国を侵略するための口実に過ぎなかった。

 まず重要なのは、いわゆる「大東亜共栄圏」が戦前ではなく、第二次世界大戦開戦後の1940年に初めて提唱されたという概念を確立することである。

 ノモンハンの戦いに敗れた日本は、シベリアへの北上戦略を阻まれ、近衛内閣は天皇の意向を受けて、東南アジアに転じて資源を略奪する「南下」計画を用意した。 このような背景から、「大東亜共栄圏」が提唱されたのである。

 しかし、日本は小国で人数も少なく、資源も不十分で、多くの軍隊がまだ中国に捕らわれており、東南アジアは基本的に当時の欧米帝国主義の伝統的な植民地であった。

 日本がこれらの地域の資源を奪おうとすれば、植民地の軍隊を相手にしなければならないばかりか、戦略がなければ、中国と同じように現地人から攻撃されることになる。 そこで日本は、軍隊を送ろうとしている東南アジアの人々を混乱させるために、「大東亜共栄圏」という概念を考え出したのである。



 大東亜共栄圏」は、まず地理的な概念であり、「大東亜」に具現化されたものであった。 その基本的な範囲は「東アジア」であるが、「東アジア」に「大」がつくことで、謎が多くなってくる。 東アジアだけでなく、ロシア極東、東南アジア、オセアニア、南アジア、アフガニスタン(本によってはアラスカ、カナダ西部、アメリカ西部、中央アメリカも)などが含まれていた。

 この計画を実現するために、日本は、まず半島を制圧し、次に東北部を制圧し、中国全土を侵略し、東南アジアを制圧し、さらに東南アジアを中継基地としてオーストラリア大陸を制圧するというように、段階的に前進することを計画したのである。

 これらがすべて成功すれば、「大東亜共栄圏」構想はほぼ完成したことになる。 東三省の豊富な資源は、日本の侵略計画の原動力となったが、中国の人々は日本の侵略を阻んだ。



 日本は中国で長い間勝つことができず、資源も尽きていたので、東南アジアを併行して侵略した。 1941年12月7日の真珠湾攻撃を皮切りに、半年かけて東南アジアや西太平洋の島々を徐々に占領し、「大東亜共栄圏」の範囲がほぼ現実のものとなっていたのである。

 北はアリューシャン列島から南はオーストラリア、西はインド洋まで、面積は約380万平方キロメートル、人口は約1億5千万人であった。

 しかし、占領地の民衆は、いわゆる共通の繁栄を経験することなく、災難ばかりが報われてきた。 昔から言われているように、「人の言うことはよく聞け、人のやることはよく見ろ」である。

 日本の「大東亜共栄圏」が何であるかは、事実が最も納得できるものである。 日本は占領地で、奴隷教育、政治的弾圧、経済的略奪、世界各国の人々の虐殺を行い、数え切れないほどの凶悪犯罪を犯してきた。



 大東亜戦争構想が実現できると思っていた矢先の太平洋戦争の敗北は、日本にとって痛手であった。 2つの「原爆警報」が鳴り響く中、日本は1945年8月15日午前11時、野心を膨らませた「南の夢」からようやく目を覚まし、降伏を表明したのである。

免責事項:この記事はTencent News Clientの自費出版メディアによるものであり、QQ.comの見解や立場を表すものではありません。


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